明けないよると沈まぬたいよう 2
「お答えする義務はありません」
言い捨てたの表情は、つくりものじみていた。
感情という感情、すべてを押し殺したかのように色のない顔。
「先を急ぎますので、失礼致します」
声すらも、の口から発されているのだとは理解しがたいような、冷たい氷のような声。
引きとめ口を割らせる事も可能ではあったが、彼は一度頭を振って、去ってゆく背中を見送った。
取るに足らない噂。中傷とまではいかないが。
優秀な隊長の下に女の副官がついた、それだけで閉塞された組織の好奇の対象となるのは致し方ない事。
だからこそ、腑に落ちない。
噂は、恐らくは事実無根であろう。それが市丸の見解だった。下卑た噂はおそらく異例ともいえる出世を為した彼女に
対するやっかみに過ぎない。
『優秀な六番隊副隊長殿』なら、冷静にあしらってそれで仕舞いにしてしまうのだろうと思っていたのだが。
仮に噂が真実であったとしても、だ。
ならばこの反応は、過剰反応としか思えない。
「怒っとるんとは、ちゃうみたいやけど・・・・・・」
怒り、侮蔑の目で見られる方が、まだ得心がいく。
何か裏がある。六番隊の隊長とその副官の間には、何かが・・・・・・・・・?
そう思わせるには充分な状況が整っていた。
「何や、よーわからんわ」
そして、彼女に対する好奇心が深まるのにも申し分ない状況だった。
「失礼します」
扉を開くと、そこは広い板張りの間。
大きくとられた窓には繊細な細工の模様硝子が嵌め込まれ、床に芸術的な影を落としている。
その窓のすぐ下に置かれた、重厚な造りの黒檀の机。
彼は其処で書類を眺めていた。
「お呼びでしょうか、朽木隊長」
「入れ」
「は」
呼ばれ、顔を上げると彼は手にしていた書類を机に置き、の側へ差し出した。
一礼し、部屋の中へ入ると、別世界へ迷い込んだかのような錯覚を覚える。
空気の質が、明らかに違うのだ。
朽木白哉の周りにだけ存在する、静かで鋭い・・・・・何者も近づけさせぬ雰囲気。
それが大気に滲み出て、空気すらも変質させているかのよう。
「一つ、頼みを聞いてはくれまいか」
歩み寄り、薄い紙を拾い上げる。
それは、中央からの指令書であった。最上部に『重要機密』の朱印が存在を主張している。
内容は、局所的な虚の異常発生についてであった。また、調査に向かった者が数名帰らぬとも記してある。
「故あって私は出られぬ。この件の調査、及び解決を任せたい」
指令所は“可及的速やかな解決を求める”と結んであった。
事態は急を要しているのは言われずとも明白。そして、解決が困窮を極めるであろう事もまた明白。
だからこそ、隊長格への指令となったのだ。言い換えれば、隊長格以下の手には負えぬ事態ということである。
そこへ副隊長であるが首を突っ込めばどういうことになるか?命を賭さねばならぬことは火を見るより明らかだ。
冷静に考えればすぐに判ること。
賢明な者ならば辞退を申し出よう。
白哉が出られぬなら他の隊の隊長が出れば良い。それが最善であるはずだ。
けれど。
「・・・・・承知、致しました」
期待に応えたかった。
尤も、の知る『朽木白哉』は他に期待をかけるなどしよう筈も無いのだが。
せめて、利用価値のある存在で居たかった。
ほんの僅かだとしても、彼に『必要』と思われたかった。
「感謝する。供に誰なりと連れるがいい。人事権は委ねる」
「いいえ、私一人で結構です。貴重な人員を裂きたくはありません」
「・・・・・・そうか」
書類を机の上に返却する。触れた黒檀の感触はひんやりと、手のひらの熱を奪った。
その手の上に、そっと重なる別の、手。
の手を包み込むように絡められたのは、刀を振るっているとは到底思えぬ繊細な指。
朽木白哉の、手・・・?
はっとして息を飲んだ。その首に、指先が触れ頚動脈をなぞるように上へと。顔を上げるのと同時に顎を
捕えられ、唇が塞がれた。
その感触は、纏った空気と違い暖か。
穏やかなその温もりとは違う激しい熱が、の胸の内を灼いた。
触れたのはほんの一瞬。
彼は何事も無かったかのように平然と、再び処務に戻った。
絡められた指も、何の名残も無く離れていった。
「失敗は許さぬ。分かっているな」
「・・・・・・はい、承知して御座います」
「では、行け」
「は。失礼致します」
無慈悲に心を焼き尽くす。
彼はまるで、たいようのようだ、と思う。
私を灼き続ける。私が彼を想い続ける限り。
沈まないたいよう。
この慕情を抱え続ける限り、心は休まることなく血を流し続けるだろう。
けれど、彼が居なければ、きっと息をすることすら忘れてしまう。絶対的な存在。
求めているのは物質的なつながりではない。けれど、彼が与えてくれるのは、そればかり。
表面的な熱。それだけで満足できない。心が欲しいと。焦がれているのは心なのだと我が侭を言う
のは私の女の部分。
うるさく強請る。
どうしろというのだ?
浅ましく「私を愛して」と縋りつくのか?ただの女に成り下がれと?そんな事、プライドが許さない。
矜持を捨てられぬ。ならば所詮その程度の想いでしかないのだ。諦めろ。
―――諦められるものなら、とっくに諦めている。
どうすればいい?誰か、教えてくれ。
救いを求めることすら、もう疲れてしまった。
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