「じゃーん、なぁなぁガイナン、見てみろよ、これ!」

前触れなく部屋の扉が開いたかと思えば、歩く騒音発生器が乱入してきた。
今日の仕事はこれまでか、と。諦めの息をつくと、部屋の主は手元のディスプレイの電源を落とした。



 泡になる前に




「どーだ、すげぇだろ?」
「なんだこれは?紙で出来た本?」
「絵本、っていうんだと。コドモ向けの本らしいけど、きれいだろ?」

闖入者は腕に抱えていた、色褪せた背表紙の本をデスクに座るガイナンに手渡して、その背後に回りこんだ。
長い歳月を経たのだと感じさせる、くすんだ色の表紙。豪奢なその装丁には金糸でこう記してあった。

『Den Lille Havfrue』

「何て読むんだ?」
「さぁ?」
「知らずに買ったのか?」
「表紙にひとめぼれだ」

呆れてすぐ横から同じ本を見ている顔を眺めると、当の本人はさして気にする様子もなく愛しそうに骨董本を 見つめていた。

「でもな、どんな話なのかは知ってるぜ?」

重い表紙を開くと、そこには溢れんばかりの色彩で描かれた海と、そこで遊ぶ人魚の絵があった。
これが描かれた当時はもっと鮮やかな表情でもって見るものを楽しませていたのだろうと思うと、少し勿体無い ような気がしてしまう。
紙に記す、という文化体系が失われて久しい現在。 惜しいものを失くしたと、Jr.は思う。

「人魚の女の子が人間の王子に恋をするんだ」

ぺらり、と紙をめくる音が静かな室内に響く。
ガイナンには、紙面に書かれている文字は解読することが出来なかったが、Jr.の語る声と眼前に広がる絵で 物語を描いてゆく。

「それで、人間になって王子のところに行くんだけど、その王子がまたバカな奴でさ。その子の気持ちに全く 気付かないでやんの」

ぱら、ぱら。ページをめくるたびに古い本独特の匂いがする。
Jr.はそれがとても好きで、ガイナンもそう悪いものではないと思う。

「あげく、別の女と結婚するとか言い出すんだ」
「人魚は何も言わなかったのか?」
「言えなかったんだよ。人間になる代わりに声を失くした。好きだって伝えることも、結婚するなって泣きつく こともできなかったんだ」

はらり。
めくったページに描かれた、涙にくれる少女の姿。
人魚である自分を捨てた以上、海に戻ることも出来ず。あれほど焦がれた王子は別の女の元へ。
拠りどころを失くしてしまった彼女は行き場を失くしてただ、泣くことしか出来なかったのだろう。

「そしたらさ、結婚式の前の晩に人魚の女の子の姉ちゃんが現れて言うんだ」
「なんて?」

話の続きをせがむガイナンがなんだか可愛く見えて、Jr.はもったいぶって一拍置いてから口を開いた。

「王子を殺せば、また人魚に戻れる。そんで、ナイフを渡した」

Jr.は手を伸ばして、ガイナンの手の上の本のページをまた一枚、めくる。
そこには華奢な体に不釣合いの白刃と、手にしたそれをどうしていいのか分からず途方にくれる少女がいた。

「殺せるわけがない。人魚の女の子は王子が好きだったんだから。・・・たとえ、別の女を選んだとしても」
「憎くは思わなかったのか?王子を」
「さぁ、思ったかもしれないし、思わなかったのかもしれない」

そうして一枚めくった先は、最後のページだった。

「ただ、彼女は王子を殺せなかった。行く所もない。だから、海に身を投げた。泡になって死んじまった」

その身を紺碧の海の一部と化して。
彼女は懐かしい、自分が育った場所へと戻ったのだ。

「死ぬ必要があったのか?陸で別の人生を探せば・・・」
「さぁ、なんでだろな。彼女にとっては王子のいない世界なんて必要なかったのかもな」

憶測にすぎねぇけど、とJr.は本を閉じた。そうしてガイナンの背中に張り付いて肩にあごを乗せて、甘えるように 摺りよる。

「切ない話だな」
「やるせねぇよな。でも、オレは好きだぞ、この話」
「お前は見かけによらずロマンチストだからな」
「見かけによらずは余計だっつの」

ガイナンは本を机の上に置いて、背後にべったりとくっついたJr.の頭を後ろ手になでた。
喉をなでればゴロゴロと鳴りかねない懐き方だと思う。口にしたりはしないけれど。 (しようものなら怒る・わめく・すねるで手がつけられなくなるに決まっているのだ)

「・・・・人魚の子もさ、一人で陸に上がるだけの勇気があれば、他にいくらでもやりようがあったはずなのにさ」
「例えば?」
「王子の寝込みを襲って、既成事実作ってモノにしちまうとか」

ふっと、ガイナンが噴出す。

「お前ならそうするだろうな。だが、この子はそんなはしたない手段は知らなかったんじゃないか?」
「元が半分魚だから、ヤり方知らなかったとか?」
「さぁ、どうだか」

Jr.の腕がガイナンの首を絞めるようにからみつく。苦しくはないが、“囚われている”という感覚がある。
それが奇妙に心地いい。

「お前のおかげで美しい話が台無しだ」
「悪かったな」

すぐ耳元から声がする。それも心地いい。

「美しいもなにもあるかよ。好きな奴を手に入れるためだったら、どんな汚い事だってするさ。オレなら、の話しだけど」
「お前らしい言い分だ」
「だろ?」

こめかみに温かく柔らかい感触。離れ際に息が当たって、それがキスだったのだと気付いた。
それからJr.は体を前に乗り出して、ガイナンの頬に唇を落とす。

ガイナンが顔を傾けて目を閉じると、すぐに唇に同じ感触が降りてきた。

「おまえなら、どうする?この子と同じ状況になったら」
「最初から、俺に気付かないような間抜けには惚れないよ」
「・・・・・いい性格してるよ、おまえ」
「お褒めにあずかり光栄」

もっと、その感触が欲しかった。だから、Jr.を逃がさないように彼の赤い頭を押さえてぐっと引き寄せた。
自分がJr.に囚われているのと同じように、この手もJr.を捕えて離さないのだと言い聞かせるように、強く。

「おまえは俺に気付く。だから俺は泡になったりしない」
「・・・・・ほんと、イイ性格してら」

肩をすくめ呟いて、もう一度キスをすると、ガイナンは満足そうに笑った。





------ベタに人魚姫。下ネタはやめろルベド。