浅い眠りの中で、起きねばという意識とまだまどろんでいたいという意識が対立する。
その向こう側で、だれかが慈しむような指先で顔に触れ、頭を撫でているのを感じた。
夢見心地のままその手をつかむと、ふっと、空気が笑った気がした。



 終わる世界




相手が誰だったか、などと愚問も良いところだ。目覚めたガイナンは思う。
ここはガイナンの私室であり、自由に立ち入りが出来るのはごく限られた人間、正確に言えばガイナンともう一人 しかいないのだから。
けれど、彼の意識が完全に覚醒する前に、あの手の持ち主はどこかへ行ってしまった。 「おはよう」も告げぬまま。
夢うつつでかの手を捕えていた指先は余りにも力なく、容易にすり抜けてゆく温もりを名残惜しいと思った。

夢?

そう、夢だったのではないか?腕を組んでガイナンは自問した。
この部屋へ立ち入ることの出来る人物、もう一人のクーカイ・ファウンデーション代表理事。
かの人物は、繊細という言葉からかけ離れていて、常に騒がしくしているというのに。あの静かで優しい指先と彼とを イコールで結ぶのは難しい。

そして、早朝の訪問者探しをするだけの時間が、今の彼にはなかったのだ。
多忙の一言で片付けるには多すぎる量の仕事が彼の前に立ちふさがっている、この現実。
夢だった、ということにしておこうか。
無理矢理に謎にケリをつけて、名残惜しい枕に別れを告げて、彼は仕事に向かった。

そして、自宅に戻れたのは時計の短針がぐるりと一回転と少しして日付が変わって後のことだった。
ざっとシャワーを浴びてベッドに倒れこむ体力が辛うじて残っているか、というほど疲れ果てて。
近頃の仕事量は常軌を逸している。
愚痴る間もなく、ガイナンは眠りの淵へと落ちていった。

そうしてまた朝を迎える。
遠くでけたたましく鳴る電子音のアラーム。目覚めたくないと駄々をこねる眠気と、それを助長するような温かい 指先。毛羽立った神経をなで付けてゆく手。指先。労わるような。

―――夢じゃなかった?

昨日、曖昧な意識の外から触れてきた心地よい手。
二日連続で同じ夢を見るなんて、そうあることじゃない。(これは現実だ)何とか意識を覚醒させなければ。 思えど、連日の激務に酷使された体は貪欲に眠りを求め、うまく目覚められない。

「・・・・・・ぅん」

小さく唸り声を上げると、するりと温もりは遠ざかっていった。

―――二度も逃がしてたまるか。

目覚めを渋る体に鞭打って、ファウンデーション代表理事はとっさに体を起こすと、「やべぇ」と呟いて 逃げようとした背中を抱きこみ捕まえた。 勢いよく引っ張った反動で、引き寄せた体ごとベッドにしりもちをつく。柔軟なスプリングがそれを支えて 小さな軋みを響かせた。

「・・・・どうして逃げる?」
「よ、よう、おはようガイナン」
「・・・・・・質問に答えてもらおうか?」

しばらくの間もぞもぞと逃げようとしていた、ガイナンよりも随分と小さな体は低く落ちた彼の声に逃げられない 事を悟ったのか、大人しくして頬をかいた。

「起こしちまったか?悪い」
「いや、アラームが鳴るまではぐっすりだった」

いつから居た?訊ねて、ガイナンは腕の中に収まっている温もりに頬を寄せた。目の前いっぱいに広がる赤毛。 ふわりと広がる彼愛用のコロンの香り。彼の―――Jr.の香りを、胸いっぱいに吸い込んで。

「いやさ、最近、顔見てねぇなぁ、って、思って。顔、見に来た。元気にしてんのかなぁ、ってさ」

しどろもどろに答える口調。
耳まで広がった紅。(きっと顔も真っ赤だ)

「寝顔で元気かどうか判るのか?」
「少なくとも、病気してねぇのはわから」
「そうか。それより、お前こそいつもの元気がないんじゃないのか?」

ガイナンには不法侵入を咎めるつもりなど毛頭ないし、Jr.もそれを知っているはずだ。
なのに、Jr.はどことなくばつの悪いような態度を示す。その理由が判らなかった。知りたいと思った。

「・・・・おまえさ、最近すげぇ忙しいだろ?」
「仕方ないさ、時期が時期だ。月末の総決算に向けて忙しさは今がピークだな。寝る暇があるだけ上等だよ」
「オレは、何も手伝えない。おまえが忙しいの・・・辛いの、知ってんのに、なんもできねぇ」

ぽつりとJr.が落とした言葉にガイナンははっとした。
共にファウンデーションの前代表にひきとられ、共に“親”の跡を継ぎ、共に代表理事としての権限を手にいれた ふたり。 けれど、日に日に大人へと成長してゆくガイナンとは違い、Jr.の体はその時間を止めた。彼をこどもの姿のまま 留め置いた。
異形の能力。それを理解するものには『仕方のないこと』として片付けられる事象。しかし、知らぬものにとっては 畏怖の対象にしかなり得ない。

「気にすることはない」

成長しない体のせいでJr.はファウンデーションの表舞台から降りざるを得なくなった。

「おまえの力になりたいのに。助けたいのに、オレは無力だ」
「そんなことはないさ」

普段から明るく振舞っている為に見落としがちだが、その事をいちばん気に病んでいるのは他でもないJr.自身のはずだ。
“ニグレド”は“ルベド”の弟だった。守られる存在だった。けれど その立場は今では逆転している。そうするのが自然であるから、そのように振舞うのだ。Jr.もガイナンも。
“ガイナン”は“Jr.”の保護者。
そのスタンスに慣れてしまって忘れていたのだ。変わらずJr.がガイナンを守ろうとしていることを。

「・・・・おまえが側にいるだけで、俺は救われているよ」

腕の中の小さな体。それをここまで愛しいと思ったことはなかった。
心配されていたこと、守られていたこと、それをここまで嬉しいと思ったことはなかった。
存在を感謝した。側にいてくれたこと、ずっと、変わらず。

「ほんとか?」
「あぁ」

振り向いた顔はやはりほんのり赤みを帯びていた。そして、嬉しそうに笑った。
そう、変わっていないのだ。昔から。
心配性で、不器用な気遣いをして。けれどどこか臆病さを抱えていて、それを正面から伝えることが苦手なひと。
底抜けに優しくて、身内にとことん甘いひと。

そんなに甘やかしてくれるな。
ガイナンは思う。ベタベタに甘えて、情けない姿を見せてしまいそうになるから。甘い顔を見せるな、と。

「ありがとう、側にいてくれて」
「お、おう」

抱きしめる腕に力を入れると、小さな手がぽんぽんと背中を叩いた。
なんだか胸が熱くて。(嬉しさに)
苦しくて。(あまりの愛しさに)泣きそうになった。


願わくば。今、この瞬間に世界よ滅んでしまえ。


けれど、陽はだんだんと昇り、時計の針はチクタクと時を刻む。
Jr.とガイナンを乗せたまま、世界は生きつづけるのだ。




------寝てる理事の頭をなでるJr.の図を想像するとニヤケます。いや、それだけなんですけどね。