甘い声。耳元に囁く。
引きずり込まれてゆく。抗い難い誘惑。
一度足を滑らせたら、ほらもう、戻れない。



 食虫植物の蜜




ギシリと寝台のスプリングが軋んだ。小さな音のはずなのに、夜の静まり返った空気の中ではやけに鮮明に聴こえた。
暗い部屋。遥か下の街から届く光がぼんやりと室内を縁取っていた。
ベッドの上に腰かけて、Jr.はじっと、親の敵を見るような憎々しげな目でカーペットを睨んでいた。きつく噛み締めた 歯がきしんで、厭な音がする。じわりと、口の中に鉄錆の匂いが満ちたのにはっとしてJrは溜息をついた。

冷静になれ。自分に言い聞かせて数度、浅い呼吸を繰り返した後、Jr.はベッドに横たわり目を閉じた。
彼をこうも苛立たせ怒らせている原因。戸惑いを生んだ言葉。それに思いを馳せる。





いつものように宙域の調査から変えったデュランダル。そこから降りてきたJr.は満身創痍そのものであった。
なんとか自力で歩いてはいるものの、メリィに肩を貸してもらっている状態で片足を引きずっている。
頭に巻かれた包帯は髪の赤との対比もあって、あまりに痛々しく見えた。

大丈夫か、と訊ねるガイナン。
大したことじゃねぇよ、いつもどおりに応えるJr.。
一歩間違えたら死ぬところでしたやん、眉根をしかめて呟くメリィ。
ちび様の悪運が強くてらして助かりましたわ、沈痛な面持ちで告げたシェリィ。

楽観的なのは当の本人のJr.だけだった。彼はイタズラが発覚した子供のようにばつの悪そうな顔をして、ガイナンの 顔色をうかがっていた。

無事でよかった。長い沈黙の後、ガイナンはようやく一言だけ、言葉を発した。怪我をしたのはJr.であるのに、 ガイナンのほうがよっぽど辛そうな表情をしていた。悪い。かけるべき言葉を思いつけずにJr.は謝罪の言葉を 残し、メリィの介助を離れ精一杯の虚勢で背筋を伸ばすと一人で去って行った。
元気そうな姿を見せることと、この気まずい沈黙を早々に終わらせること。
それが心配性に過ぎる(とJr.は思う)面々を納得させられる唯一の方法であり彼らに対する礼儀だと思ったからだ。


その日の夜、Jr.は全身の傷の疼きに眠りにつくことが出来ずにいた。痛み止めを飲もうにも体を動かすことも叶わず、 ただ焼けるような痛みと戦うしかなかった。
大した怪我じゃねえから心配すんな。そう言い張って本格的な治療を断った事をとんでもなく悔やむ。
意地を張らずにちゃんと診てもらっとけばよかった、と朦朧とした意識の下で考えていた。
いっそ、意識が飛ぶほどの痛みだったなら良かったのに。気を絶するには少し足りない痛みに苛立ちを隠せない。 このまま眠れぬ長い夜を過ごすはめになるのか。諦めかけたその時に、部屋の扉の開く音がした。
何とか顔だけを動かし、近づいてくる足音に耳を傾ける。

「起きていたか」
「おまえの足音で起きたんだよ」
「そうか、それは悪かった」

泣き言を言ってしまいそうだった。痛い、死にそう、なんとかしてくれ。でもそれを押さえつけて口から出た言葉 はやっぱりつよがり。

「痛み止めを持ってきたんだが、いらぬ世話だったかな?」
―――俺の前でくらい、意地を張るのは止せ。・・・・・痛いんだろう?

空気を振るわせる、柔らかな声。同時に頭の中に響く別の言葉。

―――バレてたか。
―――俺とお前の間で隠し事が出来ると思うな。

滅多に感情を表に出すようなことはしないガイナンだったが、聴こえてきた“声”には明らかな怒気が含まれていた。
彼はスーツの内ポケットのなかから小瓶を取り出し、中の錠剤をひとつ取り出すとベッドサイドにある水差しに手を伸ばした。 磨き上げられたクリスタルの中の水が揺らめく。

「俺はお前の嘘がわかる。だからこそ・・・悔しいと思うよ」
「何がだよ」

Jr.の声は掠れていた。発熱しているのだろう。紅く火照った頬と、浅い息遣い、それから少し上ずった声と。
やり切れない気持ちがガイナンを押しつぶそうとする。

「俺はそんなに頼りにならないか?」

真摯な瞳。怒りも悲しみもない交ぜになった瞳。けれど、それはJr.に対してのものではなく、自分自身に対しての もの。それら感情を全て飲み込むようにして、ガイナンは薬と水を口内に含み、寝台に横たわったJr.に深く口づけた。 舌を巧みに使って錠剤をJr.の口の中に押し込む。そうして、Jr.の喉がそれを嚥下したのを確認してから唇を離した。

「んっ・・・」
―――いきなり何すんだ、バカヤロ!
―――口先だけは元気だな。
「これでも、お前一人くらい支える力はあるつもりだ」

ゆっくりと体を起こして、湿り気を帯びた唇を手の甲で拭い同じ手でJr.の唇にそっと触れる。

「もう宇宙には出るな。俺の目の届かない場所に行くな」
「ケッ、やなこった」
「今のお前を拘束することくらい、わけない」
「・・・・・・テメェ、本気で言ってるのか?」
「無論だ」

声を発すれば喉が悲鳴を上げた。しゃべることは今のJr.には苦痛にしかなりえない。それでも、念話ではなく声帯を 使っての会話を選択したのは、彼の意地だった。

「・・・と、言ったらどうする?」
「手足ちぎってでも出てってやらぁ」
「そう、言うだろうと思っていたよ。けれど少なくとも、怪我が癒えるまではおとなしくしていてくれないか?」

それくらいなら、言うこと聞いてやらないでもねぇな。と呟いて、Jr.はブランケットを頭まで引き上げた。
痛み止めが効いてきたのか、体の疼きは緩和されてきている。同時に強烈な眠気が襲ってきた。

―――ねみぃ。寝る
―――あぁ、おやすみ

それがいい訳だと、ガイナンは気付いただろうか?精神波自体が眠気で微弱になっているから、ごまかし遂せたかも しれない。
気付かれていないといい。(ガイナンに全て委ねたら、もう傷つかなくてすむと思ったことを。心も体もなにもかも)





それから、短いとは言えない時間が経って、Jr.の傷も完全にとは言わないが日常生活に差し障りない程度には癒えた。
デュランダルの整備も万全だという。けれど、Jr.の元に出動要請が来ることはなかった。

早く行かなければ。気だけがはやる。けれど、ガイナンはこう言うのだ。『まだ万全の体調ではないだろう?』
地上に留めおかれている間に、足の裏に根が生えて身動きが取れなくなってゆく錯覚に襲われる。

このまま、ずっと平穏な日々の中にいればいいじゃないか。わざわざ危険に飛び込んでゆくこともないだろう?
誘う声がする。それは甘美な響き。
けれど、是と答えたなら、二度と飛び立つことはかなわない。

甘い蜜の香り。誘われ足を踏み外したなら、そこは出ることの叶わぬ甘やかな牢獄。




------ワケがわからない。