時間はシャンパンの泡みたく儚く消えてゆくものだけれど。
時折訪れるブラックホールのような幸せがあるから、生きることは止められない。
赤い空の下
その日、Jr.は暇だった。とてつもなく暇だった。
ファウンデーションに停泊中のデュランダルは現在整備中。下手に口を挟もうものならば、
『ちび様がもうすこし、艦を労わってくだされば整備に掛かる時間も費用も抑えられますのに』
だの、
『あちゃー、あちこち傷んでるわ。ちび様の指揮じゃデュランダルが可哀想やわぁ』
だの。ちくちくと小言を喰らうのが関の山。
こういう時は逃げるに限る、とJr.は緊急用の屋上ヘリポートへと退避を決め込んでいた。
“緊急用”と名の付くだけあって、この場所は滅多なことでは誰一人やってこない。鍵の管理者である
クーカイ・ファウンデーション代表理事の権限を借り見事侵入を果たしたJr.は常春の日差しにまどろんでいた。
「あー、なんっつーか、気ぃ抜ける」
彼の乗る艦・デュランダルは一昨日入港した。遠目に摩天楼と化したその艦が見える。陽光を弾いてキラキラと
輝く姿に自然とJr.の頬は緩んだ。誇らしく思う。あの美しい艦を指揮するのが自分であると言う事を。
羽ばたく鳥のさえずりと、遥か下方からわずかばかり届く街の喧騒とがさざなみのように緩やかに満ちている。
それは彼を眠りの淵へと誘い込む子守唄のように、優しく浸透していった。
昨日は各方面への報告だの面倒な手続きだのと息つく暇もなかった。航海の間に知らず蓄積されていた疲れと
相まって、Jr.はあっという間にうたた寝というには深い眠りへと落ちていったのだった。
通用口のすぐ横の壁にもたれて、すぅすぅと安らかな寝息を立てる赤毛の少年。
彼の上に伸びた貯水タンクの影は、一度小さく縮まりはしたものの、時の経過と共にぐんぐんと背を伸ばしてゆく。
陽は東から西へ。
空は淡いブルーから色を徐々に変え始め、薄紫から金を帯びた朱へと移ろった。
鋭さを増した夕暮れの光が、Jr.の目蓋を刺す。眩しさに意識が覚醒していくのが感じて取れた。
「・・・・・んでもう夕焼け空なんだよ」
半ば寝惚けたぼんやり声で呟きつつ、Jr.は手をひさしの様に顔の前にかざした。
見上げた空は燃えているような赤。
淡かった光はどんどんと密度を増し、本来相容れないはずの色彩、紺・群青、そして黒へと変貌を遂げてゆく。
その過程から、目を離すことができなかった。
彼が航った、常闇の宙には存在しない色彩。
喩えそこへ作為が加わっているのだとしても(ファウンデーションの気象その他は人工制御だ)、光景は掛け値なし
に美しいと言えた。
―――Jr.
と、声がした。
空気の振動を介さない、彼の脳にダイレクトに届く声。他には聴こえない。意識と意識をコネクトさせる高次元での
会話。
―――ガイナン、どうした?
届くのは声だけではない。相手の感情、見ている景色、それらも(鮮明ではないが)流れ込んでくる。
どうやらガイナン氏は呆れ果てているらしい。
―――疲れているだろうから、と仏心を出したのは間違いだったようだな。どれだけ寝れば気が済むんだ?
―――寝る子は育つって言うだろ?
―――少しも育ちはしないくせに。
―――るせぇよ。
成長しない躯体。それはJr.の抱える特殊能力のひとつ。
年下のはずのガイナンは既に実業家の風格を備えつつあるのに反し、Jr.は未だ子供の姿のまま。
ありのまま享けいれるしかない。そのように“生まれて”きてしまったのだから。変えようはないのだから。
割り切って進むしかない。(たとえその生にどれほどの妄執と因縁が纏わり付いていようとも)
生まれたからにはとことん生きてやろうと思うのだ。開き直って少しでも長くこの世界に居座ってやろうと思うのだ。
―――なぁ、ガイナン。空がきれいだぜ?
―――あぁ、見えている。
瞳を閉じれば、Jr.が見たのとは違う角度からではあったが、確かに頭上広がる同じ空が見えた。
ガイナンの見ている景色。
彼の眼を通して見た世界も、やはり美しい。
そういえば。
同じ時、同じ空を見上げるのは一体いつ以来のことだろう?
久しぶりに感じた、世界を共有する感触。
久しぶりに感じる、近くに居るのだという実感。
なんだか妙に嬉しい気分だ。それがガイナンにも伝わっているらしい。彼が小さく笑ったのを感じ取れた。
―――なーにがおかしいんだよ?
―――いや、別に。
―――ま、いいけど。
流れ込んでくる、言葉にならない暖かな感情。それにしっくりくる名前をつけることも、どんな気持ちか上手く
説明することもできないけれど、Jr.の中にあるものと
ガイナンから伝わってくるものは同一と言えるほどに酷似している。
望もうと望むまいと、嘘のつけない相手。だがそれは曖昧なかたち無い心を曖昧なままそのままで伝えることができる
至上のコミュニケーション相手とも言える。
そんな風に素直に思えるなんて、そうそうある事じゃない。普段なら『便利』より『厄介』の方に不等号が向くこの力。
それに感謝してもやってもいい。珍しくそう思った。
―――ここで冷えたシャンパンの一本でも出てくると文句ねぇんだけどな。
―――ないこともないが。
―――ケチケチすんな、大人しく出しやがれ。
―――やれやれ、我が侭な王子様だ。
「ぷッ」
何が王子だ、バカヤロー。
Jr.は立ち上がって、ひとつ大きく伸びをした。
背後のドアを開ける。重いドアはやはり重量に違わぬ重そうな音をさせてのっそりと開いた。
向かう先は、クーカイ・ファウンデーション代表理事のプライベートルーム。
Jr.が到着することにはきっと、グラスの中でよく冷えた黄金色の液体が泡を立てていることだろう。